Essay



理想の授業


 私の母方の伯母は、亡くなった母に似ていて、会うと母の姿と重なる。

 私ががんを患い、初めの抗癌剤治療を終え、抗菌室から一般病室に移ったとき、母は伯母を病室に連れて来てくれた。
 伯母は、髪がすっかり抜け落ちた私の頭を見て、
「辛い思いしたね」
 と私の手を握りしめ、手の上に涙を落とし続けた。

 母が亡くなったとき、病室でも、葬儀場でも伯母はずっと押し黙っていたが、火葬場で母の棺がまさに火葬室に入れられるとき、伯母は棺にすがりついた。
「てるちゃん、てるちゃん、てるちゃん…」
 伯母は、何度も何度も母の名を繰り返して、号泣した。
 伯母と母は年がやや離れており、母はよく伯母に可愛がってもらっていた。

 教員をしていると、必ず授業の壁にぶつかる。
 校務分掌が増え、責任が増え、保護者からの電話が増え、いつしか授業が片手間になったりする。

 私が20代、嘱託講師でまだ担任を持たなかったとき、理想の授業を自分なりに追い求め教壇に立ち続けた。
 1分前に廊下に立ち、チャイムと同時に始業。年間で1秒も無駄にしない。
 徹底した授業準備。秒単位のリズムある指示・授業展開。
 生徒の予習不備を叱責し、立たせる。
 徹底した宿題の督促。宿題回収率100%死守。
 持ちクラスの英語成績の良し悪しや外部模試の偏差値に一喜一憂していた。

 ところが、30代になり、担任をもち、授業準備が後手になり始めた。
 私は理想とかけ離れた授業を展開し、悩み始めた。

 そんなある日、私は伯母の夢を見た。
 それは、伯母の葬儀の夢だった。
 伯母は健在なので、大変失礼な夢である。
 その架空の葬儀中、伯母の生前ビデオというものが上映された。
 伯母はなぜか、数学の教師になっていて、教壇に立っていた。
 穏やかな笑みをたたえて、生徒を、私を見つめた。
 それは、笑顔という範疇を超えていた。
 大仰な物言いかもしれないが、全人類の優しさを一つの顔に集約したような、仏というものが実在したら、あのような笑みになるのだろうか、というような、清廉で、吸い込まれるような笑顔だった。 
 伯母は計算をいくつかして、授業の終わりに次回の連絡を板書した。
 字の誤りがあり、生徒がどっと笑った。
 伯母は、生徒と一緒になって笑った。
 目じりをいっぱいに細めて、笑った。
 
 そこで目が覚めた。私は泣いていた。
 呆然として、しばらく寝床から起き上がれなかった。

 その日を境に、私は変わった。
 教科研究をほどほどに、私は生徒と接し、生徒を想うようになった。また授業は、素の自分を、未熟な人間を晒すようになった。
 偏差値を追わず、生徒と英語の歌を歌うようになった。  やがて、生徒がたくさん話しかけてくるようになった。
 授業中、生徒から学ぶことが多くなった。
 終礼や掃除時間、生徒が私を囲むようになった。
 そして、生徒と腹いっぱい笑うことが増えた。


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