Essay



路上運転と大学入試演習と


 授業アンケートで、『改善して欲しいこと』という枠を設けて、生徒には匿名で自由に書かせている。高校2〜3年で増えてくる書き込みは、次のようなものだ。
「大学入試演習は配るだけでなく、ここが大事だという解説をして欲しい」
「解き方のコツなどを教えて欲しい」
 私は授業向上のために妥協や変節をしない形で授業を絶えず改良してきた。しかし、この要請には応じていない。

 自動車免許を取り、路上に出て数年経つと、いろいろな不文律や技術を学ぶ。
 道を譲っていただいたらハザードランプを3回ほど点滅して後続車へのお礼に代える。それが前方車両のときは、手を開いて頭上に掲げる。道を譲る際はパッシングをして減速、前方車との車間距離を多めにとる。昼間、点灯をしている車とすれ違うとき、パッシングして教え、消灯を促してあげる。キープレフトの度合いは、原付バイクの多い道路、左折直前の交差点、対向車の大小、わだちや水たまりの影響で変化し、一律でない。20代のころ、道を譲ったところ対向車の運転手が目に見えてキョトンとしたことがあった。後に気づいた事だが、私の後続車がなく、ただ私が減速せずその場を通過すればよかったのだ。夜間、踏切で停車し、その道に勾配があるとき、消灯する。対向車の方々がまぶしがるからだ。私がカーランプを点けるのは、昔はただ暗くなれば点けていたが、現在は陽が落ちかけて点灯していない対向車とすれ違ったときに点けるようにしている。多くの場合、バックミラーで確認すると、その車も点灯する。暗がりに点灯していない車を1台でも減らし、事故の確率を少しでも減らそうという、まあ私の変な試みである。
 かような事を、たとえば自動車学校の教官がつらつらと教えたらどうだろう。
 映画の結末をばらすような行為であり、そこには運転者自身で体得する喜びも誇りも何もないはずである。

 私は大学入試演習を、路上運転のように考えている。数多くの文章や設問に接し、自問し、知恵を絞り、間違いに学び、おびただしい試行錯誤を重ね、果てに自身のみが知る秘訣と確かな学力を手にしていく、とても贅沢な時間である。その迂遠なプロセスは、社会人として人がひとり立ちするところにも似ている。
 私の演習授業では、いよいよ困難な文法等には言及するが、それも必要最小限に留める。
 起立・礼・小テスト・音読・演習・解答を置く教卓にじっと立つ・質問に応じる・終業、である。
 判断により質問者を突き放すときもある。不親切に聞こえるかもしれないが、「この英文はこう読むんだ、どうだ、分かっただろう」と教師が知識を振りかざす時間ではない。躓きの度に大人が手を貸すようでは人間の中身を鍛えることができず、卒業生はものにならない。
 時代が嫌うのだろうが、教職員の本務は、学生の歓心を買うことではなく、受験エリートを量産することでもなく、卒業生が社会でいかに活躍するかを目指すことだと信じている。教育はちやほやすることではない。いつか教官が助手席を離れて、生徒がひとり路上に出るときが来るのである。



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