Essay


ふーちゃん


 7月20日は私の飼っていた猫の命日である。猫の命日を記憶している人も少なかろうと、我ながら苦笑するのだが、忘れられない理由がある。
 在天の両親は動物好きで、私は幼少時、犬、猫、ウサギ、鶏、チャボ、ウズラ、金魚、ハムスター等に囲まれて育った。級友は私の家を「動物園」と呼んでいた。
 ある冬の晩、家族で外食した帰りのことだった。店を出ると、一匹の子猫がうずくまり、何かをかじっているところに出くわした。よく見ると、客の捨てたつまようじだった。
 私が「連れて返ろう」と言いかけたとき、母は猫にすっと歩み寄り、だっこをし、「寒かったね。うちにおいで」と頬を合わせた。
 父は買っていた朝食用のスティックパンの封を開け、ひとつを子猫の口に運んだ。
 母の肩越しに見える子猫は、目に一杯に涙を溜めて、パンをむさぼった。その猫を「ふーちゃん」と名付け、一家でとても可愛がった。
 その猫は、生涯に2度涙を流している。
 晩年、猫という動物は通常、飼い主のもとを去ることが知られている。これは、一説に猫が仲間(飼い主)に弱みをつかまれ、襲われるのを避ける本能からとる行動だ とされている。ふーちゃんもまた、高齢になり、我が家から姿を消した。
 ある晩、母がやつれきったふーちゃんを連れて帰ってきた。ダンボールに布団を敷き、水を与えた。ふーちゃんは口から鼻をつくような腐臭を放ち、吐血している。
 母は寄り添って、
「あんた、水くさいやないね。うちで死んだらよかろうもん」
 と、口づけをした。
 ふーちゃんは声にならない声をあげ、涙を流した。
 その晩、家族のもと、ふーちゃんは眠るようにして息を引き取った。
 猫が泣くなんて、とにわかに信じられない人もいるかもしれない。しかし、無上の情愛を受けたとき、目に熱いものが込み上げるのは、人も動物も同じであると私は信じている。

  

Essay