Essay

慢心と壁

 現在の学校で勤務する前、私は塾で英語講師のアルバイトをしていた。
 2回目の定期テストだったか、教え子の一人が英語で100点を取った。
 学年でただ一人の満点ということで、たいへん誇らしく、私の鼻は高かった。
 その後、上司からの要請で、2つの校舎を掛け持ちするようになった。
 私はたった数ヶ月くらいの指導で、自分は良い指導ができるのだ、だという慢心をしていた。
 そんなある日の地元校舎での授業のことである。私がいつものように教室にはいると、数人の女の子たちが席にいなかった。
 授業後、国語の授業となり、私より若い大学生講師の授業だった。女の子達は戻り、授業を受けていた。ショックだった。
 授業の後、女の子たちは私の授業中、隣の教室にずっといたことが分かった。
 授業の集団ボイコットである。
 私は真っ赤になって、
「なんで僕の授業受けんやったか」
 と大声をあげた。すると、女の子の一人が、
「先生は、生徒をひいきしよる」
 と返した。
 再び、ショックだった。
 私は生徒に別をつけたことはないと考えていた。
 しかし、女生徒たちの目からすると、英語の不得手な男子生徒にばかり目を掛けているのだという。
 私の高かった鼻はへし折られ、ひどく打ちのめされて、同日、隣町の校舎に行った。
 自分は教師にふさわしくない、という気持ちがぐるぐると頭の中を駆けめぐった。
 穴があれば入りたい、そんな心境だった。
 その時だった。校舎にはいると、教え子の一人に唐突に手を握られた。
 彼女は満面の笑顔で、私の手をぶんぶん振りながら、
「英語、95点やったとよ」
 と叫んだ。
 前の晩、私が夜の11時までテスト勉強につきあっていた生徒だった。
 英語が苦手の女の子で、試験範囲の英文をひとつひとつ和訳して教えた記憶がある。
「先生、ありがとう」
 その言葉に、私は涙ぐみ、背を向けてしまった。
 一時、自分は教師になるべきではないと塞ぎかけたが、救われた気がした。教育・教科指導の深さを思い知った日だった。
 今私は勤務校で、学期毎に匿名による授業評価アンケートを生徒に書いてもらうことを自らに義務付けている。
 塾での勇気ある女生徒たちのおかげで、私は教師として襟を正す姿勢を教えてもらった。




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