小学生の時、テレビに映ったヒラメだったか、カレイだったかの顔真似をふざけてしたことがある。
母は夕食の箸を置いて、
「あなた、いま、誰の顔真似をしたとね」
と、私の目を射抜いた。
私はすくみあがって、
「魚のまね」
と答えた。
ややあって、母は、
「人じゃないとやね」
と聞いた。
そして、静かに箸をとった。
高校1年生のとき、書道の時間にのりのふたを開けたまま放置して席を離れていたことがあった。
平井先生は私を呼びつけ、その授業中は一切の書道活動を行ってはならないという罰を与えた。
先生は生徒に授業の振り返りを授業日誌に書かせていたので、私は以下のように記した。
「のりのふたを閉めていなければ授業に加えない、とする条件を事前に与えていないのに、今回の罰は不当である。僕にも不備があったが、先生にも不備がある」
今思えばよくもこのような不遜なことを書いたものだと振り返っている。
平井先生は私の反論に取り合わなかった。
成人し、30代も折り返してなお、私は子どものように失敗の日々である。
しかし、私は人の顔立ちを嘲弄した記憶がない。
私はまた、のりのふたを閉め忘れた記憶がない。
今後も、決してないと思う。
嫌われることをいとわず厳しい教育を施してくれた、母や平井先生のご指導は陰ることがないのだ。
「褒めて伸ばす」、教育の基調であろう。
しかし父性的な教育も必要だと思う。
人を叱るのは労力が要る。
しかし、人は、人や物を大切にしない言動を看過せず、しっかりと諫めるべきだ。
これは、教壇に立つ者の、また子を持つ者の一責務だと思う。