Essay



負うた子に教えられ


 中学一年生を担任して、早や半年が経った。あっという間だったが、実にいろんな事があった。
 1学期、盗難があった。それも、2人の生徒の財布が一度に盗まれたのだ。
 入学後間もないことで、私たち担任はたいへん悔しい、また申し訳ない気持ちに苛まれた。
 だが数日後、幸いにも被害者のひとり、角君の財布が昇降口で発見された。
 担任の岩下先生は、「角、よかったなあ」と声をかける。
 しかし、角君は笑みを返さなかった。むしろ不機嫌の面持ちである。
「なんだ、角、うれしくないのか」と、岩下先生。
 角君の答えはこうだった。
「吉川君の財布がまだ見つかっていません」

 林間学校2日目で、食事中、気分を害して泣き出した子がいた。
 私はその子を食事会場の外に連れ出して、事情を聞いた。
 泣いた子と別れかけたとき、私のクラスの西崎君がそばにいた。泣き顔を見るや、
「大丈夫?一緒に帰ろう」
 と声をかけ、寄り添うようにして部屋に戻っていった。
 また、夏期補習中に私は一度だけ、
「今日の教室掃除はできる子がしてくれたらいいです」
 と忙しい子たちの下校を促したことがあった。
 西崎君ひとりが残ってくれた。
 教室は机椅子が各40脚、広さは一般的な居間の3〜4倍である。彼は私ととりとめもない話をしながら、皆のいない教室をせっせと掃除した。
 私が顧問を務めるバドミントン部員でもある西崎君は、私の両手がふさがっていると、必ず物持ちを申し出る。

 私は、角君や西崎君ような子たちに教鞭を執るとき、たいへんな緊張感を覚える。この聖人君子たちの人生を決して曲げてはいけない、親がなさってきたであろう最上の教育を損ねるまねをしてはならない、という使命感が胸をよぎるからだ。
 同じ状況で私に二人のような言動ができたかと自問するとき、甚だ心許ない気がする。負うた子に教えられたこの半年だった。


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