赴任初年度の教え子に、『知探』という名前の生徒がいた。
私は英語圏の習慣に慣れさせるため、授業中、生徒を下の名前で指名している。
なんて読むの、と聞くと、その生徒は「ともさが」と答えた。
翌日から、私の英語の時間、「次の訳を、ともさが、お願いします」という具合に指名した。
2学期になり、『知探』が放課後、私のところにやってきた。
内緒の話があるという。
「先生、俺たちを下の名前で呼びようやろ。あのな、俺、実は『ともさが』じゃないっちゃん」
私は驚いて、本当はなんて読むの、と尋ねた。
『知探』は答えようとしない。
しばらくして、
「担任が個人調査票もっとるやろ。それで調べたらいいやろ。クラスには内緒やけんな。『ともさが』でいいけんな」
とだけ言い、彼は下校した。
担任の先生に調査票をお借りして、名前の読み方を調べた。
「ちたん」とふりがながふってあった。
私は帰宅し、悩んだ。
一人だけ苗字で呼ぶわけにもいかない。
『ともさが』と呼ぼうか。
『ちたん』と呼ぶのか。
考えに考え、なぜ彼は私のところに来たのか、という疑問に行きついた。
私は国語辞典を探した。
翌日、私は授業に入る前に、
「ちょっとみんな聞いてくれ」
と、教科書を仕舞わせた。
「T君の下の名前やけど、実は、僕が読み方を間違えとって、本当は『ともさが』じゃないっちゃん」
『知探』は立ち上がって、やめろ、と叫んだ。
「…『ちたん』と読みます。これは、銀色の美しくたいへん強い金属で、幅広い用途で使われるとても優れた金属の名前です。ギリシア神話のタイタンに由来していて、英語のtitanには傑出した人、巨匠といった意味があります。親御さんは、素晴らしい名前をおつけになったと思います。半年呼び間違えてたけど、今日から『ちたん』と呼ばせてください」
家で何度もリハーサルしたことばを皆に語った。
『知探』は頭を抱えこんで、机に伏してしまった。返事はなかった。
悪ぶってたが、語学に才覚ある子で、その後私の「ちたん」という指名に不機嫌そうに起立しては、美しい和訳を披露した。
その後程なくして、『知探』は進路変更のため転校していった。
翌年の文化祭で、『知探』が学校に遊びに来ていた。
教室で生徒と話していた、茶髪で派手な服装の子がいた。『知探』だった。
私に気が付いて、走り寄ってきた『知探』は懐かしい笑顔でこう言った。
「センセ、ひさしぶりやん。俺、覚えてますか。『ちたん』です」